記事内に広告が含まれています

【作品背景】白い球と黒い球「恐るべき子供たち」(ジャン・コクトー)

フランス文学
Peter HによるPixabayからの画像


第1次大戦後のパリ。同性愛、異性愛、近親愛。少年少女の感情が妖しく交錯する。「芸術のデパート」ジャン・コクトーによる傑作中編小説。

みなさん、こんにちは。めくろひょうです。
今回は、「恐るべき子供たち」(ジャン・コクトー)の作品背景をご紹介します。

あらすじ

中学に通うポールは、憧れの男子生徒ダルジュロスが投げた雪玉で怪我をしてしまう。友人のジェラールがポールを家まで送っていくと、彼の家には美しい姉エリザベートが。ポールとエリザベートは、社会から隔絶された「子供部屋」で暮らしていた。エリザベートと「部屋」の魅力にとりつかれたジェラールは「部屋」に通うようになる。そこに、ダルジュロスに似た少女アガートが現れ、4人の運命が動き出す。

作品の詳細は光文社古典新訳文庫のHPで。

恐るべき子供たち - 光文社古典新訳文庫
4人の子供たちが繰り広げる夢幻的な暮らし。しかし、「子供の世界」が壊れると、悲劇的な結末が——。

ジャン・モリス・ウジェーヌ・クレマン・コクトー

1889年、フランスのパリ近郊メゾン=ラフィットで生まれました。8歳の頃、父親がピストル自殺をしてしまいます。中学入学後は「恐るべき子供たち」の舞台となるモンティエ広場で遊び、同級生にピエール・ダルジュロスという少年がいて、彼はダルジュロスのモデルと言われています。高校に進学するものの、勉学に励むことはなく、バカロレア(高等学校教育修了認証試験)に合格することが出来ず、大学進学をあきらめました。

ジャン・コクトー
パブリック・ドメイン via ウィキメディア・コモンズ.

その後、社交界に出入りするようになります。詩の朗読会を開催して好評を博し、処女詩集「アラディンのランプ」を発表するなど、若くして文壇の寵児と評されるようになります。ロシアの天才ダンサー・ニジンスキーと出会い、彼が所属するロシアバレエ団のポスター制作を担当するなど、多方面に才能を発揮します。

また、作家のマルセル・プルースト、ファッションデザイナーのココ・シャネル、作曲家のストラヴィンスキーやサティ、画家のモディリアーニやピカソなどとも交流を深め、ともに作品を制作するなどして「芸術のデパート」と呼ばれるようになりました。

1919年、15歳の少年ラディゲと出会います。意気投合したふたりはともに過ごし、その間に「大股びらき」「山師トム」といった小説を書き上げますが、1923年、わずか20歳でラディゲが亡くなると、コクトーは悲しみのあまりアヘンに溺れ、療養施設に入ります。1929年、アヘン中毒の療養中に執筆した「恐るべき子供たち」を発表しました。

ジャン・コクトーの家と庭
©Anne de Montalembert

1936年、子供の頃に影響を受けた「八十日間世界一周」(ジュール・ヴェルヌ)を体感すべく世界旅行に出発し、旅の途中で日本にも滞在しました。相撲や歌舞伎を見物したそうです。その後、代表作となる映画「美女と野獣」を監督。1955年には、由緒あるフランスの国立学術団体アカデミー・フランセーズの会員に選出されました。

1963年10月11日、「ばら色の人生」や「愛の賛歌」で有名なフランスの国民的シャンソン歌手エディット・ピアフが亡くなると、彼女の大ファンであったコクトーは、同じ日に心臓発作を起こし、急死しました。

ラディゲの死とブルゴワン姉弟

1919年、コクトーはレイモン・ラディゲという15歳の少年と出会います。意気投合したふたりはともに過ごし、その間にラディゲは代表作「肉体の悪魔」を発表します。お互いに良い影響を与え合う存在だったのです。しかし、わずか20歳でラディゲが亡くなると、コクトーは悲しみのあまりアヘンに溺れることになります。

ラディゲの代表作「肉体の悪魔」の作品背景

ラディゲの死を看取るコクトーを描いた短編「ラディゲの死」(三島由紀夫)

この頃、ジャンヌ・ブルゴワン、ジャン・ブルゴワン姉弟に出会います。学校にも行かず、ふたりきりでアパートに籠って暮らしているこの姉弟は、エリザベートとポールのモデルになったと言われています。
アヘン中毒療養のため施設に入ったコクトーは、そこで「恐るべき子供たち」を書き上げます。

ラディゲの死、ブルゴワン姉弟との出会い、アヘン中毒治療という状況の中で、この傑作は誕生したのです。

恐るべき子供たち

「恐るべき子供たち」は出版されると大きな話題になり、特に若者たちから絶大な支持を集めました。
既存の伝統や慣習を拒否して自由を求める若者たちは、日常と乖離した暮らしに埋没しているエリザベートとポールに共感し憧れたのです。同時に大人たちからは、若者を堕落させる悪書だと批判を受けてしまうことにもなりました。

コクトーは「恐るべき子供たち」と同時期に執筆したエッセイ「阿片」の中で、次のように述べています。

「恐るべき子供たち」を愛していると信じている人々が、よく僕に告げる。「終りの数頁以外は」と。ところが、終りの数頁こそ、或る夜、最初に、僕の頭の中に記されたものだ。その時僕は呼吸さえ出来なかった。僕は身じろぎも出来なかった。僕はノートさえもとれなかった。僕は、それ等の頁を失うことと、それ等の頁にふさわしい本を書き上げることの二つの恐怖にとらわれていた。

「阿片」(コクトー)堀口大學訳

始まりを告げる「白い球」と終わりを告げる「黒い球」

エリザベートとポールがたどり着く最後のステージである「終りの数頁」
異様な雰囲気の中で展開される幻想的な物語。

みなさんも「終りの数頁」に込められたコクトーの想いを感じてみてください。

以上、めくろひょうでした。ごきげんよう。

光文社古典新訳文庫版には、コクトー自身によるイラストがふんだんに挿入されています。

映像化作品

フランス公開70周年を記念して修復された4Kレストア版

日本語字幕が一新され、光文社古典新訳文庫版の翻訳を手掛けた中条省平氏が監修を担当。原作者コクトーと監督メルヴィルがこだわった美術や撮影のディテールが、最新の4K映像でクリアに表現されている。(1950年・フランス作品)

Bitly

ジャン・コクトー監督作品「美女と野獣」(1946年・フランス作品)

Amazon.co.jp

参考文献

「恐るべき子供たち」試論 松田和之
「恐るべき子供たち」におけるジャン・コクトー人脈 西川正也

ジャン・コクトーが最後に過ごした家を紹介しているHP

ジャン・コクトーの家

コメント