【作品背景】夭逝した天才「肉体の悪魔」(ラディゲ)

フランス文学
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若くして世を去ったラディゲが遺した「肉体の悪魔」。大人びた少年による作品の凄みを是非味わってみてください。

みなさん、こんにちは。めくろひょうです。

今回は、「「肉体の悪魔」(レイモン・ラディゲ)の作品背景をご紹介します。

あらすじ

15歳の僕は、婚約者のいる歳上の女性マルトと恋に落ちた。結婚したマルトの夫ジャックは第一次世界大戦に出征。ジャック不在の間、マルトと僕は逢瀬を重ねたが・・・。

作品の詳細は新潮社のHPで。

レイモン・ラディゲ、新庄嘉章/訳 『肉体の悪魔』 | 新潮社
青年期の複雑な心理を、ロマンチシズムヘの耽溺を冷徹に拒否しつつ仮借なく解剖したラディゲ16─18歳のときの驚くべき作品。第一次大戦のさなか、戦争のため放縦と無力におちいった少年と人妻との恋愛悲劇を、ダイヤモンドのように硬

レイモン・ラディゲ

実質的な執筆活動はおよそ4年。発表した長編作品も、今回採りあげる処女作「肉体の悪魔」と遺作「ドルジェル伯の舞踏会」の2作品のみです。

にもかかわらず、なぜ死後100年近くたった現在でも、高い評価を受けているのでしょうか。

パブリック・ドメイン via ウィキメディア・コモンズ.

4年の執筆期間は、ラディゲが16歳ころから20歳で亡くなるまでの間。少年と言っていい年齢の頃です。15歳頃に出会ったジャン・コクトーに、その文学的才能を認められ、「肉体の悪魔」の執筆を始めます。

ラディゲの凄さは、もちろん作品の完成度の高さにありますが、その作品を書き上げたのが、まだ人生経験がわずかである10代であったことにもあると言えます。

肉体の悪魔

第一次世界大戦に出征中の夫がいる若き人妻と少年の恋愛悲劇。

いち早くラディゲの才能を見抜いたコクトーの勧めもあり、自身の経験をベースにこの作品は生み出されました。

作品の完成度が高かったことはもちろんですが、当時文壇の寵児であったジャン・コクトー肝煎りの新人ということで、出版社は大々的にプロモーションを仕掛けたと言われています。
若妻と少年の不倫という内容が批判を浴びましたが、逆にその批判が評判を呼び、この作品はベストセラーになりました。

パブリック・ドメイン via ウィキメディア・コモンズ.

ちなみに原題の「Le Diable au corps」を直訳すると「身体の中の悪魔」となり、主人公「僕」の身体の中に潜む「悪魔」的な感情を表現したタイトルだと思います。

「肉体の悪魔」だと意味が不明確な感じがします。

ラディゲの死

コクトーとともにヨーロッパ各地を巡っていたラディゲは、次作「ドルジェル伯の舞踏会」の執筆に着手しますが、腸チフスを患い、わずか20年の短い生涯を終えます。

コクトーは、ラディゲが遺した原稿をまとめ「ドルジェル伯の舞踏会」として発表した後、早すぎる死にショックを受け、薬物に溺れていきました。

堀口大學訳による「ドルジェル伯の舞踏会」が紹介された日本では、多くの作家が影響を受けたと言われています。

中でも、三島由紀夫は、ラディゲの死を看取るコクトーの姿を描いた作品「ラディゲの死」という短編小説を発表したほどです。

ラディゲの死によって、ぽっかり心に穴のあいてしまったコクトー想いは、そのまま三島の想いだったのかもしれません。

人生経験の長さと短さ

なぜ人生経験の短い少年に「肉体の悪魔」のような作品が書けたのか?に対するラディゲの回答を堀口大學が紹介しています。

経験というものを、それほど大切なものだと私は思わない。それにまた、私には経験はあるのだ。私の十七年間の経験がそれだ。世間の人達は、二十すぎてからの経験だけが経験であって、それ以前のものは経験ではないというのか? そんなことを云い出したら、きりがないではないか? 「おれは実人生に就いて、経験がある」と真に云い得る者は死者ばっかりだということになるのではあるまいか? ……欧州戦争が始った時、私は十二歳だった。その時、仏蘭西全国には壮年者は一人も居なかった。彼等の悉が出征していたからである。仏蘭西には 、老人と子供だけが残されていた。然るに老人共は役に立たない。戦線でも、それだから、子供達が、不在の壮年者大人達の代理をつとめたのであった。つまり私達は少年期の終りから一足とびに大人になったのである。

— ラディゲ「世評へのコメント」

堀口大學「翻訳者のよろこび」(堀口大學訳『ドルヂェル伯の舞踏会』白水社、1931年)

若くして世を去ったラディゲが遺した「肉体の悪魔」。大人びた少年による作品の凄みを是非味わってみてください。

以上、めくろひょうでした。ごきげんよう。

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