世紀末のロンドンを舞台に、並外れた美貌を持つ青年ドリアン・グレイをめぐって繰り広げられる、情欲の世界。
みなさん、こんにちは。めくろひょうです。
今回は、「ドリアン・グレイの肖像」(ワイルド)の作品背景をご紹介します。
あらすじ
美貌の青年ドリアン・グレイ。友人である画家バジルのモデルになり、肖像画を描いてもらう。しかしドリアンは、快楽主義者ヘンリー卿の言葉に感化され、堕落した生活に染まっていく。「自分の身体は若さを保ち、肖像画が歳をとってくれればいいのに」と言い放ったドリアン。しかし彼が罪を重ねると、肖像画に変化が。
作品の詳細は、新潮社のHPで。

オスカー・フィンガル・オフラハティ・ウィルス・ワイルド
1854年、アイルランドのダブリンで生まれました。父親は医師、母親は詩人で、学問や文化に熱心な家庭で育ちます。古典語が得意で、奨学金を得るほど優秀な成績でダブリン大学トリニティ・カレッジに進学します。その後はオックスフォード大学で学び、首席で卒業しました。
オックスフォード在学中は、文学や哲学に関心を抱き、特にギリシャの美学に魅了されました。この頃に、「芸術のための芸術」や「美は善であり、悪ではない」という、芸術に対する考え方の基盤が形成されました。またヨーロッパ各地を旅行し、多くの文化人と交流を持ちました。

オックスフォード卒業後は、ウィットに富んだ会話と鋭いユーモアで人々を魅了し、サロン(貴族の屋敷などで開催される文化人交流の場)で注目の人物になります。また、学生時代から発表していた詩に加え、児童文学『幸福な王子』や戯曲などの作品を発表するとともに、雑誌の編集者としても成功をおさめ、文壇の寵児になります。そして1890年、『ドリアングレイの肖像』を発表しました。
私生活においても美を探求したワイルドは、男女を問わず恋愛対象と考えていました。1884年に結婚し、ふたりの子供に恵まれますが、その後も、浮名を流します。しかし当時の社会では、同性愛は犯罪として扱われていました。

16歳年下の作家アルフレッド・ダグラス卿と付き合った際、自分の息子を心配するダグラス卿の父親に男色を咎められ、訴えられます。敗訴したワイルドは、投獄され財産を没収されてしまいました。
刑期を終え出所しますが世間の目は冷たく、ワイルドはイタリアやフランスを転々とします。やがて病に冒され、パリに滞在していた1900年、46歳で亡くなりました。
耽美主義
ワイルドは耽美主義の代表的な作家と言われます。では、そもそも耽美主義とはどのようなものなのでしょうか。
耽美主義は、19世紀後半・ビクトリア朝時代のイギリスを中心に起こった芸術的運動で、「芸術のための芸術」という理念を中心にしていました。芸術は、道徳的・政治的・社会的なメッセージを伝えるための手段ではなく、「美」そのものに価値があるという考え方です。ワイルドは、この運動の中心人物でした。
色、形、音など、物質的な美しさが感覚に強く影響を与えると考え、受け手(読者や鑑賞者)に快楽を提供しようとしたのです。そのため、道徳的に問題のあるテーマや退廃的な要素が、作品に表現されることもありました。現実的な問題に焦点をあてることよりも、夢や幻想、感覚の世界を重視したのです。

Freer Gallery of Art and Arthur M Sackler Gallery
https://www.flickr.com/photos/freersackler/14063370032/
しかし、当時の保守的な価値観と対立し、社会的に受け入れられることは困難でした。その後、20世紀初頭には、モダニズムや象徴主義などの運動が台頭し、耽美主義は一部の作家やアーティストによって引き継がれましたが、広く社会に浸透することはありませんでした。
日本美術の影響も大きく、版画、衝立、扇などが使われることも。そして、谷崎潤一郎をはじめ、泉鏡花や江戸川乱歩など、日本人作家にも影響を与えました。
ヴィクトリア朝後期のロンドン
作品の舞台となっている19世紀末ヴィクトリア朝のロンドンは、どのような状況だったのでしょう。
世界に先駆けて産業革命を成し遂げた大英帝国の中心都市として、ロンドンは最盛期にありました。また、世界中から人々が集まり、人口が急増したことにより、仕事に就けない貧困層や移民層によってイーストエンド地区にスラム街が形成され、売春や犯罪が横行するようになっていました。
有名な「切り裂きジャック」事件が起こったのもこの頃です。

パブリック・ドメイン via ウィキメディア・コモンズ.
「霧の都」として有名なロンドンですが、その由来は、この時期、フル稼働していた工場から排出される煙で、街が昼間でも曇っていたことによるそうです。がっかりですね。
また、ヴィクトリア朝の特徴として規律やモラル重んじる志向が強かったことが挙げられます。この時代を象徴する存在だったヴィクトリア女王とアルバート公夫妻が家族円満であったことも、その要因だと言われています。
芸術家とは美なるものの創造者である
ワイルドの投獄について「そこまでしなくても」と思うかもしれませんが、当時、男色は許されざるタブーだったのです。時代に逆らいながらも、時代の寵児となり、そして異彩を放ちながら消えていった異能の人・ワイルド。『ドリアン・グレイの肖像』は彼が遺した唯一の長編小説です。

うぶな青年だったドリアン。生真面目なバジル。そして巧みな話術であらゆる人々の心をもてあそぶヘンリー卿。
世紀末のロンドンを舞台に繰り広げられる、美しき情欲の世界に沈んでみませんか。
以上、めくろひょうでした。ごきげんよう。
映画化作品
Amazon prime video で見ることが出来ます。
『ドリアン・グレイの肖像』(1945年アメリカ作品)
監督:アルバート・リューイン
主演:ハード・ハットフィールド
『ドリアン・グレイ 美しき肖像』(1970年イギリス・イタリア・西ドイツ作品)
監督:マッシモ・ダラマーノ
主演:ヘルムート・バーガー舞台を現代(映画公開当時)のロンドンに翻案した作品
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