八十日間で世界一周が出来るか?英国紳士フォッグ氏は無謀な賭けをして、執事パスパルトゥーとともに旅立つが。
みなさん、こんにちは。
今回は、SFの父とも呼ばれるジュール・ヴェルヌの代表作『八十日間世界一周』において、主人公フォッグ氏がたどった世界一周のルートを、当時の世界情勢をふまえて確認しつつ、作品背景を紹介します。
あらすじ
1872年秋、ロンドンの紳士クラブ内で「インドに新しい鉄道が設けられたことによって80日で世界一周が出来るようになった」という新聞記事が話題になる。出来る出来ないで賭けになり、「出来る」に賭けた紳士フォッグ氏は、自ら出来ることを証明するべく、執事パスパルトゥーをともなってロンドンを発つ。八十日間世界一周の旅が始まった。
作品の詳細は、光文社古典新訳文庫のサイトから。 作品紹介文が読書欲をそそります。

ジュール・ガブリエル・ヴェルヌ
1828年、フランス西部の港町ナントで生まれました。父親は弁護士で、ヴェルヌも法律家になることを期待されていました。1848年、パリに出て法学を学びますが、アレクサンドル・デュマ父子と出逢い、劇作家を志すようになりました。
しかし、なかなか成功には恵まれませんでした。その頃、アメリカの作家エドガー・アラン・ポーが実践した、科学的事実を取り入れることによって作品に真実味を持たせるという手法に興味を持つようになります。友人が製作した気球をヒントに、1863年、『気球に乗って五週間』を発表。好評を博します。その後、編集者ピエール=ジュール・エッツェルと出会い、『地底旅行』(1864年)『海底二万里』(1870年)『八十日間世界一周』(1873年)など、科学的知識に基づいた空想と、スリリングな冒険を融合させた作品を生み出していきます。当時まだ実現していなかった、潜水艦や宇宙旅行などの描写は、後の科学技術の発展に影響を与えたとも言われています。これらの作品は世界各国で翻訳され、子供から大人まで、幅広い層に支持されました。

1883年、フランス北部の街・アミアンの市議会議員に当選し、終生その職を務めました。しかし1886年、甥に銃撃されて負傷するという事件が起こります。この事件はヴェルヌの精神面に影響を与え、その後に発表された作品には、やや悲観的な要素も見られるようになっていきます。
白内障や糖尿病を患い、1905年3月、アミアンの自宅で亡くなりました。77歳でした。自宅はジュール・ヴェルヌ記念館(Maison de Jules Verne)として公開されています。
世界一周とは
作品のタイトルにある「世界一周」には、どのようなルートがあるのか調べてみました。
手段別
船によるもの
スエズ運河とパナマ運河の両方を通る
飛行機によるもの
すべての子午線を通過して出発地に戻る。但し距離36,787.559 km(北回帰線の長さ)以上のコース
ルート別
全ての子午線を横切って出発地に戻る
五大陸全てを経由して出発地に戻る
南極点と北極点を経由する
等々、様々ありました。

この作品では、太平洋と大西洋を各々1回のみ渡って出発地に戻るという、オーソドックスな定義を採用しています。
ちなみに、初の世界一周を成し遂げたのは、かのマゼラン率いるスペイン艦隊といわれています(但しマゼラン自身は航海中に死亡)。1522年のことです。その頃、日本は室町時代、織田信長は12歳でした。
旅のルート
「インドに新たに鉄道が設けられ計算上では80日で世界一周ができる。」という新聞記事を目にしたフォッグ氏は、実現可能かどうか仲間たちと賭けをして、可能であることを証明するべく、自ら旅に出ます。
1872年10月2日、ロンドンを出発した後のフォッグ氏のルートは下図の通りです。進行方向は、左から右(西から東)で、黄色線は陸路、青色線は海路です。

光文社古典新訳文庫版には、フォッグ氏の手帳に基づいた、より詳細な地図の記載がありますので、参照してください。
当時の世界情勢
フォッグ氏がこの旅に出た頃、世界の情勢はどうなっていたのでしょうか。
ヨーロッパ
近代国家が続々と樹立され、アフリカ大陸をはじめ植民地政策を推し進めていた
アメリカ
南北戦争が終結し強力な統一国家に
アジア
中国・・・アヘン戦争でイギリスに敗れ、香港はイギリス領に
日本・・・明治維新

国家の近代化が進み、工業技術の進歩も目覚ましかった時代と言えます。だからこそ、80日間で世界一周が可能になったわけです。
80日間世界一周を可能にした主な要因
80日間での世界一周を可能にした主な要因は3つあります。
1・この旅のきっかけとなった新聞記事で紹介されていた、インドにおけるボンベイ(現ムンバイ)~カルカッタ(現コルカタ)間の鉄道開通(1870年)
イギリスは1858年にムガール帝国を廃し、インドの地を直轄植民地にしました。そして生産物輸送のために鉄道網の整備を進めました。

2・スエズ運河の開通(1869年)
ヨーロッパからアジアへ行く際に、アフリカ大陸をぐるっと回りこむ必要がなくなったことが、大幅な距離および時間短縮になりました。

3・アメリカ大陸横断鉄道(カリフォルニア州サクラメント~ネブラスカ州オマハ間)の開通(1869年)
ゴールドラッシュによる西部開拓の進展、南北戦争を経て、強力な統一国家となったアメリカは工業化を推し進めました。アメリカ大陸を横断する鉄道輸送路の整備は急務だったのです。
フォッグ氏を追う
この作品出版から16年後の1889年、アメリカの雑誌社が主催した企画で、フォッグ氏の記録に挑んだ若きアメリカ人女性記者たちがいます。片や東回りで、片や西回りで、フォッグ氏の記録を更新すべく、旅に出ます。
ちなみに、西回りで挑んだ女性記者は、エリザベス・ビズランド。彼女は帰国後、ある人物に日本の美しさを伝え、その人物の来日に大きな影響を与えます。その人物とはラフカディオ・ハーン(小泉八雲)。ハーンと親交があったビズランドは、ハーンの死後、伝記『ラフカディオ・ハーンの生涯と書簡』を出版しています。
私はまだ読んでいないのですが、彼女たちの旅を追ったノンフィクション作品が出版されています。
この作品を紹介した、日本経済新聞の記事が秀逸です。
https://www.nikkei.com/article/DGXDZO63759680X01C13A2MZC001/
想像できることは実現できる
ヴェルヌが遺した言葉として「想像できることは実現できる(Tout ce qu’un homme est capable d’imaginer, d’autres hommes seront capables)」というものがあります。この言葉は、作品中で使われたものではなく、父親に宛てた手紙に書かれていたといわれていますが、その手紙自体は発見されていません。しかし、ヴェルヌの信念を端的に表しているとともに、私たちの心をワクワクさせてくれる、素敵な言葉ですね。
そんなヴェルヌの想いが込められ、近代化・工業化が世界中で進んでいる状況の中で発表された『八十日間世界一周』は、当時の人々の夢や希望を詰め込んだものだったのではないでしょうか。

時間との戦いにハラハラさせられるとともに、主人公フォッグ氏・執事のパスパルトゥーをはじめ、ユニークな登場人物たちが、場面場面で、読者を楽しませてくれます。これぞ「冒険」といった作品です。みなさんも、フォッグ氏と一緒に、世界一周の旅に出てみませんか。
以上、『八十日間世界一周』の作品背景、および、フォッグ氏がたどった世界一周のルート紹介でした。
ごきげんよう。
この作品は1956年にアメリカで映画化され、作品賞をはじめ5部門でアカデミー賞を受賞しました。






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