激しい風が吹きすさぶイギリス・ヨークシャーの荒野。激しい風が吹きすさぶようなヒースクリフとキャサリンの愛と憎しみ。
みなさん、こんにちは。めくろひょうです。
今回は、「嵐が丘」(エミリー・ブロンテ)の作品背景をご紹介します。
あらすじ
青年ロックウッドは、都会の喧騒を離れ、ヨークシャーの荒野に建つ「スラッシュクロス」屋敷を借りることにする。家主であるヒースクリフという男が住む「嵐が丘」屋敷を訪ねたロックウッドは、老家政婦ネリーから、「嵐が丘」のアーンショウ家と「スラッシュクロス」のリントン家を舞台にした、ヒースクリフの壮絶な人生について聞かされる。
作品の詳細は新潮文庫のHPで。
エミリー・ジェーン・ブロンテ
1818年、イギリス・ウエストヨークシャーのソーントンで、六人兄弟姉妹の四女として生まれました(長女と次女は幼くして亡くなりました)。妹アンが生まれた1820年頃、同じウエストヨークシャーのハワースに転居します。この地での生活が、「嵐が丘」のベースになりました。
父親は牧師で、エミリーは幼い頃から牧師館の家事を任されていたそうです。
妹のアンとは仲が良く、ふたりで詩や劇を書いたりしていました。教師をしたり、姉シャーロットとともにベルギーへ留学したりしたのち、故郷ハワースに戻りました。
シャーロットはエミリー、アンとともに詩集「カラー、エリス、アクトン・ベルの詩集」を自費出版しますが、評判になることはありませんでした。
その後エミリーは「嵐が丘」の執筆に着手します。原稿完成から1年後の1847年に出版されますが、注目されることはありませんでした。
同時期に、姉シャーロット、妹アンも作品を出版。シャーロット作の「ジェーン・エア」は大反響を呼びました。
1848年9月、急死した兄の葬儀に参列した際に体調を崩してしまいますが、医者の治療を拒み、12月、30歳の若さで亡くなりました。
女性作家に対する偏見
ブロンテ姉妹が作品を発表していた時代(19世紀中頃)は、女性の社会進出がほとんど認められていませんでした。姉妹たちが生活費を稼ぐために就いていた学校教師や家庭教師は、そうした時代に女性が働ける例外的な職業でした。
女性に対する偏見は作家にも当てはまり、「女性が小説を書くなんてはしたない」という風潮の中、ジェイン・オースティンは匿名で「高慢と偏見」(1813年)を発表し、メアリー・アン・エヴァンズはジョージ・エリオットという男性名で「ミドルマーチ」(1871年)を発表しました。
ブロンテ姉妹も、男性とも女性ともとれるようなペンネームを使って作品を発表しました。
三人合作の詩集「カラー、エリス、アクトン・ベルの詩集」にあるように、姉シャーロットは著者名「カラー・ベル」で「ジェーン・エア」を、エミリーは著者名「エリス・ベル」で「嵐が丘」を、妹アンは著者名「アクトン・ベル」で「アグネス・グレイ」を出版しました。
シャーロットの「ジェーン・エア」は当時の社会的慣習に抵抗する女性像を描き出し、評判となり、「作者は男性か、女性か?」と世間の注目を集めました。
それに対し、エミリーの「嵐が丘」は、暗い復讐劇といった内容や、複雑な物語の構成などが要因となって、評価されることはありませんでした。
しかし、この要因こそが、のちに「嵐が丘」の文学的評価を高めることになったのです。
作家サマセット・モームによる「世界の十大小説」にも選出されています。
ちなみに、「嵐が丘」の著者がエミリー・ブロンテであることを明かしたのは、人気作家になっていた姉シャーロットで、それはエミリーが亡くなった後でした。
同じくイギリスの地方を舞台に描かれながら全く趣の違うラブストーリー「高慢と偏見」(ジェイン・オースティン)の作品背景はこちら
登場人物と物語の構成
この作品は、「嵐が丘」のアーンショウ家と「スラッシュクロス」のリントン家を舞台に、三世代にわたる物語が展開されていきます。決して登場人物が多いわけではないのですが、同じ名前、似たような名前が随時出てくるので、それぞれの関係を把握しておくことが、作品を読み進めていくうえでの助けになると思います。
両家の人々、ヒースクリフ、そして、この壮大な物語の語り手と聞き手を図にしましたので、参考にしてください。
複雑に絡み合う人間関係とともに、この作品をわかりにくくしているのは、物語の構成です。老家政婦ネリーが青年ロックウッドに語るという図式がベースになるのですが、エピソードの語り手が次々と変わったり、時系列通りにエピソードが並んでいなかったりします。現在では、この複雑な構成が高い評価につながっているのですが、発表当時は、複雑な構成が理解されず、評価を得られない主な原因でした。
Wuthering Heights
作品の原題Wuthering Heightsは「風が激しく吹く高台」という意味で、作品中ではアーンショウ家の屋敷を指しています。これを「嵐が丘」と訳したのは、英文学者の斎藤勇博士で、歴史的名訳と評価されています。
モデルとなったハワースの荒野を愛したエミリー。一時期を除いてハワースを離れることもなく、未婚のまま30年という短い生涯を終えた彼女が、なぜ「嵐が丘」のような壮大なスケールの愛憎劇を描けたのか。本人による作品に対するコメントは残されていません。
激しい風が吹きすさぶイギリス・ヨークシャーの荒野。激しい風が吹きすさぶようなヒースクリフとキャサリンの愛と憎しみ。若き女性作家エミリー・ブロンテの凄まじさを感じてみてください。
以上、めくろひょうでした。ごきげんよう。
映像化作品
1939年 アメリカ
監督:ウィリアム・ワイラー 主演:ローレンス・オリヴィエ マール・オベロン
第12回アカデミー賞で撮影賞(白黒作品)を受賞
1992年 イギリス
監督:ピーター・コズミンスキー 主演:ジュリエット・ビノシュ ラルフ・ファインズ
2011年 イギリス
監督:アンドレア・アーノルド 主演:カヤ・スコデラリオ ジェームズ・ハウソン
おすすめHP
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写真で巡るイギリスの旅~『嵐が丘』の舞台、ブロンテ姉妹ゆかりの地”ハワース”~
参考文献
親子関係からみた「嵐が丘」の一考察 宮副紀子
二項対立という視点から見る「嵐が丘」 中川右也
「嵐が丘」ゴシック小説の中のロマン主義的な要素 阿部陽子
「許されざる者」とは誰か:「嵐が丘」の神学的解釈 廣野由美子
嵐が丘における時間の意味に関する考察 岩上はる子
時代に反逆した女 吉田尚子
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