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【作品背景】貴方はどう読みますか?「変身」(カフカ)

ドイツ文学

みなさん、こんにちは。
今回は、死後再評価を受け、現代思想にも多大な影響を与えた、実存主義文学、不条理文学の旗手と呼ばれる
チェコの作家・フランツ・カフカの代表作「変身」の作品背景を紹介します。

あらすじ

朝、目が覚めたとき、自分が毒虫になっていることに気付くグレーゴル・ザムザ。最初は驚いたものの、淡々と日常生活を送る父母そして妹。金銭面で家族を支えていたグレーゴルの収入が途絶えたとき、家族の心境に変化が現れる…。

作品の詳細は新潮社のHPで。

『変身』 フランツ・カフカ、高橋義孝/訳 | 新潮社
ある朝、気がかりな夢から目をさますと、自分が一匹の巨大な虫に変わっているのを発見する男グレーゴル・ザムザ。なぜ、こんな異常な事態になってしまったのか……。謎は究明されぬまま、ふだんと変わらない、ありふれた日常がすぎていく

フランツ・カフカ

1883年、オーストリア=ハンガリー帝国領プラハ(現チェコ共和国の首都)で生まれました。両親ともユダヤ人で、父親は商人でした。叩き上げの商人であった父親はチェコ語を話し、ユダヤ社会の名門出身の母親はドイツ語を話していました。

1889年、小学校に入学しますが、父親は、プラハで多くの人たちが使っているチェコ語ではなく、当時の支配者階級の人たちが使っていたドイツ語の学校に進学させます。1893年、ギムナジウム(大学進学を目指す中等教育機関)に入学。スピノザ、ダーウィン、ニーチェ、ゲーテなどの著作に触れ、将来作家になることを目指すようになります。

1901年、プラハ大学に入学。学生組織「プラハ・ドイツ学生の読書・談話ホール」に入会し、この組織が主催する朗読会などに参加するようになります。この組織で、後にカフカの文学活動に大きな影響を与えた、作家マックス・ブロートと知り合います。ブロートを介し、作家・哲学者志望の若者たちとの交流を深めていきます。

プラハ地方裁判所で1年間の司法研修を受けながら、小説の執筆を始めます。大学卒業後は、「ボヘミア王国労働者傷害保険協会プラハ局」に就職します。勤務時間がお昼過ぎまでだったため、その後の時間を作品の執筆にあてることができました。仕事を続けながら、文芸誌などに作品を発表。出版された作品は短編や小編を集めた短編集でした。『変身』は1915年に出版され、好評を得ましたが、その他の作品は、芳しい売れ行きではありませんでした。

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1917年、肺結核と診断され、長期休暇を取って療養生活に入ります。翌年、職場に復帰しますが、1922年退職。再び病院やサナトリウムで療養生活を送りますが、1924年6月、40歳で亡くなりました。遺体は、父母が眠るプラハのユダヤ人墓地に埋葬されました。

亡くなる前、カフカは友人マックス・ブロートに、書きかけの原稿などを全て処分するように頼んでいましたが、ブロートは残された原稿の価値を見抜き、自ら原稿を再構成し、出版しました。後にカフカの代表作と呼ばれる長編作品『審判』(1925年)『城』(1926年)などは、このような経緯で、カフカの意志に反して、世に出ることになりました。そしてフランス実存主義の巨頭、サルトルやカミュに注目され、世界的な評価が高まっていきました。

人たらし

生前カフカは、多くの女性と交際・婚約を繰り返しました。しかも「手紙魔」で、交際中の相手に大量の手紙を送りました。何人かの女性はその手紙を保管していて、カフカの死後、書簡集として出版されたものもあります。「女たらし」と言えるエピソードですが、実はもっと広い意味で、カフカは「人たらし」でした。

生前のカフカについては友人、知人たちによる多くの証言が残っています。それらによれば、カフカはおとなしく決して目立った人物ではありませんでした。会話の輪の中では聞き役に回り、意見を求められるとユーモアを交えた応答をしたそうです。礼儀正しく、職場の上司や同僚にも愛される人物でした。そんなカフカの人柄を伝えるエピソードを、ふたつ紹介します。

ひとつめ。カフカの生涯最後の恋人である、ドーラ・ディアマントが残したエピソードです。カフカとドーラが公園を散歩していた時、泣いている小さな女の子に出会います。

https://unsplash.com/photos/pu6q89QxrwQ

「どうしたの?」
「お人形をなくしちゃったの」

カフカは素早く物語を組み立てます。

「お人形は旅に出たんだよ」
「どうして知ってるの?」
「お人形から私に手紙が来たからね」
「その手紙見せて」
「ごめん、家に置いてあって今は持っていないんだ。明日持ってくるよ」

家に帰ったカフカは、作品を書く時と同じ真剣さで手紙を書きます。翌日、カフカは手紙を持って公園に行き、手紙を読んであげます。

「旅行して、知らない世界を見て、新しい友達を作りたいの。だから、あなたのことが嫌いになったわけじゃないのよ。なので、毎日何をしたかを報告する手紙を書きます。」

そしてカフカは三週間にわたって手紙を書き続け、少女に読んで聞かせたそうです。少女を悲しませない結末をどのようにするか悩んだカフカは、人形を結婚させることにします。人形は旅先で出会った青年と恋に落ち、森で結婚式を挙げ、ふたりで仲良く暮らしています。そんな結末にしたのです。人形と再び会うことが出来ないとわかっても、もう少女は悲しみませんでした。

結核に冒され、余命いくばくもない晩年のこのエピソードは、『ブルックリン・フォリーズ』(ポール・オースター)に採り上げられています。

ふたつめ。晩年は、若者からの相談を受けることも多くありました。中でも有名なのは、職場の同僚の息子で、作家志望の青年であったグスタフ・ヤノーホとの交流です。カフカは20歳以上歳の離れたこの青年を気に入り、様々なテーマで、ヤノーホと対話します。ヤノーホは後に、この時の対話をもとに『カフカとの対話』(1951年)を出版しました。この作品は、リアルなカフカの言動を知る貴重な資料になりました。

「変身」の読み方

実存主義(意味や理由がなくても人間は存在する)文学、あるいは、不条理(原因や理由がないにもかかわらず筋が通らないことが起こる)文学として読み解く視点。繊細だったカフカとは対照的に、叩き上げの商人で実利的な思考を持っていた父親との長年にわたる確執から読み解く視点。チェコで生まれドイツ語を話すユダヤ人であるというカフカの民族性から読み解く視点。

カフカの作品については、様々な角度から研究がおこなわれています。また、グレーゴルが変身してしまったUngeziefer(害虫)については、作中でどのような生物なのか描写されていません。どんな虫だったのかを研究している人もいるほどです。

多くの論文や書籍が発表されていますので、興味を持たれた内容のものを読んでみることをお勧めします。

https://o-dan.net/ja/

私は研究者ではありませんので、シンプルに、ストーリーを楽しみましたが、読者が自分の興味に基づいて、自由に作品を読み解くことができることも、『変身』の魅力かもしれません。

重い話だと言われますが、カフカは『変身』の原稿を、笑いながら友人たちに読んで聞かせたというエピソードも残っています。あまり肩肘張らずに読んでみてもいいのではないでしょうか。そもそも「朝起きたら自分が虫になっている」話ですよ。

自分は何者か

実存主義・不条理文学の旗手、などと言われると、気難しい人物を想像してしまいますが、これまで紹介してきたように、カフカは、ユーモアを解するとても誠実な人物だったことが窺えます。また、職業作家ではなく、会社勤務を続けながら作品を執筆した、副業作家でもあります。

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Cederic Vandenberghe

しかし、同時に「チェコで生まれたドイツ語を話すユダヤ人」という曖昧な自分の立場に苦悩します。果たして自分は何者なのか。この思いは、主要なテーマとして彼の遺した作品に内包されています。作品の魅力はもちろんですが、その人物像も、人々を魅了する要因なのかもしれません。

生前は決して高い評価を受けたわけではなく、死後、自分の意志に反して発表された作品群をきっかけに再評価され、現在も世界中に多くのファンがいる状況を、カフカはどのように感じているのでしょうか。

以上、『変身』の作品背景紹介でした。ごきげんよう。

現在、驚くべきことに、新潮文庫版は新刊で入手できないようです。一時的な品切れなのか、新訳を準備中なのか。

安全ヘルメット生みの親

傷害保険協会に勤めていたカフカは、仕事上、工事現場の視察をすることもありました。その際、危険防止のため軍用ヘルメットを被っていたそうです。

ここから安全ヘルメットが普及し、カフカを安全ヘルメット生みの親とする説もあるそうです。

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